「新しい旅行のかたち、ミリオンエクスプレスは当院で」との張り紙が、放射線科の受付に掲示してある。はて、ミリオンエクスプレスとは……と思った僕は、受付の事務員に「これは何ですか」と訊いてみる。すると「こちらでございます」と、なにやら旅行パンフレットを差し出すではないか。昔人間の僕は「病院から旅? まさか、黄泉の国ではないだろうねえ」「いやですわ、ふふふ、全国、いや、全世界に行けるんです」



 東京~大阪間、往復千円……千円!



 「どうしたらこんなに格安なんですか」「患者様、ご興味がおありですか、さあ、こちらへどうぞ」と、中へ通された。そこには、陽気な放射線科医が座っていた。

 「ミリオンエクスプレスですね。ご説明しましょうか?」「は、はあ……」「要は、これが遺伝子レベルでのスキャナです。これで、あなたの身体の全ての細胞をスキャンします。一度、符号情報に置き換えて、ネットワーク網を通ります。そして、到着地の病院で、遺伝子レベルから復号します。あなたの身体は元通りに復元されます」「ほー」



僕は「ほー」としか言いようがなかった。椎間板ヘルニアを治しに来ただけなのに、なぜだかその「ミリオンエクスプレス」なるものに徐々に興味を引かれた。なおも、医師の説明は続いた。



 「で、ちょっと専門的になりますが、人体専用のAチャネル、物品専用のBチャネルを使って、エンコードとデコードをすることにより、あなたの身体はもちろん、手荷物や着衣が転送されるわけです」「ほー」



 どうしても東京に行きたかった。ちょっとしたイベントに参加するためだ。しかし、人体を符号化するという発想には、口があんぐり開いてしまった。



 「名古屋からご到着の金井さん、デコード終了、ご到着されましたー」
 「はい、そこに着替えとお荷物がありますので、そこで着替えちゃってください、お疲れ様でした……まあ、万事こんな具合です」「は、はあ……」



 その「金井さん」とやらが、放射線室の扉から出てきた。すこぶる元気そうだった。



 「運ぶ、というよりは、転送する、といったイメージですね。ただ、ファクシミリと違うのは、人体はあくまで1人1つだということです」「と、いいますと?」「人体を複製しようとすれば、まあ出来ないことはないんですが、それでは電気通信法に抵触、つまり、違法行為になりますので」「そんなことが出来るんですか……」



 しばらくの沈黙が流れた。僕は初歩的なことだろうと思って訊いた。



 「い、痛くはないんですか?」「全然大丈夫です。たとえば……ごく普通のMRIだと思ってください。ちょっとガガガ、という音がするかと思いますが、目覚めた頃には目的地ですんで、まあ、安心してお任せください。患者さん、東京に行きたいんでしょう?」「まあ、8月になりますが」「じゃあ、ご予約を入れておきますね」「では、8月18日東京着、8月19日大阪着でお願いします」 「そしたら、そういう段取りですんで。遅れないようにしてくださいね」「はい、どうぞよろしくお願いします」「お大事にー」



 病院の予約券をもらった。予約券というよりも、それは文字通り切符に近かった。何だか変な気分になった。人体を転送する……。理屈では、アタマでは分かっていても、何だか解せない感じがした。



――8月――



 僕は、実を言うと「コミックジャパン86」という、日本最大級の同人誌即売会に行くのだった。分厚いコミJカタログと、旅行用のカートを引っ提げて行くと、あのにこやかな医師が放射線科で待っていた。




 「やあ、鈴木さん、あなたそういう趣味だったんですねー、僕と同じですー」
 「は、はあ……」
 「僕も行きたかったなー、でも、仕事があるので無理なんです今年はー」
 「お仕事って……これですか」



 その「ミリオンエクスプレス」なる、新しい機械を指さして僕が言った。



 「そうですそうです。いまの時期、コミJに行く人って、案外多いんです。新幹線も飛行機も予約で一杯ですから、疲れないこれを使う方って案外多いんですよー」
 「へええー」



 その日、東京都区内では「雷注意報」が出ていたことを、僕も、そして医師も失念していた。なにせここは大阪。テレビでは甲子園球児の活躍が写され、灼けるような太陽、そして青空だった。



 手荷物はおろか、ピアスやチケットまで「Bチャネルの箱」とやらに入れて、僕は緑色の手術用の薄手のガウンに着替えてその装置の「Aチャネルの寝台」に寝そべった。しばらくの沈黙があった後、放射線科の医師が大声を出した。


「息吸ってー」


濃密な酸素が出ているのだろうか、一気に気分が爽快になった。


「はい、止めて!!」



 ガシャン、という衝撃音が聞こえたかと思うと、身体は重力を失って行った。次いで、ヒュインヒュインと、僕をスキャンする音が聞こえた。網膜には……もう網膜は符号化されていて実体化されていないのだろうけれど、意識の中の画像には「転送率60%」といった進捗状況が表示された。僕はどこへ行くのだろう……意識というか、魂というか、実態のない僕が、どこかを急速に流れながら移動していることだけがわかった。



 転送率67%……転送率73%……転送率94%……で、画面が急に止まった。まわりじゅうが静かになった。あれ、僕は転送されるはずだけれども、ミリオンエクスプレスってこんなんだっけ? 何かがおかしい気がした。刹那、画面が暗転し「サージ電圧発生中 バックアップモード」の画面に切り替わって、フェードアウトするように光は消えた……僕は眠るように意識を失った……。



 あれから、幾らほど時間が過ぎたのだろう……。再度、画面がフェードインするように光が復活した。転送率は94%から徐々に復帰しつつあったが、画面の動きが先程よりも遅い。あれ、ここはどこだろう……今はいつ? 今何時? ……気にする僕に気になるメッセージが表示された。



 「ミラリング復帰成功 記憶ポインタ部分損傷」



 記憶……ポインタって何だ? そういえば記憶……あれ、僕はどこに行こうとしてたんだっけ……。誰と会うんだったっけ……。ここはどこだろう……。



 気がつけば、僕は息をふうっと吐いていた。僕は装置の中で全裸で、一応身体は無事らしかった。あらゆる関節を動かしたが何ともない。欠損している部分もないらしかった。ここは本当に大阪なのか。僕はここがどこなのかが全く分からなかった。



 「何だここはっ!!」
 「き、気が付かれましたかー、あのー、す、鈴木さーん」「あの、あなたは誰、ここはどこですかっ」「東京の病院の看護士です」「は?」



 どうやら僕は大阪から「ミリオンエクスプレス」なるものに乗せられてここまで来たらしいのだが、どうやら何をしに東京に来ているか、それに、今がいつなのか、なぜここに寝そべっているのかがわからなかった。



 「と、取りあえず、着替えをくださいっ、な、何か着せてください」
 「わかりました、これです。カーテン閉めておきますので、ご、ごゆっくり」

 大変ですー、鈴木さんが大阪から無事に来られましたーという看護士の甲高い声がした。



 すると、「ご無事ですかっ!」と白衣の医師団がカーテンをやおら開けるので、僕はびっくりしてGパンとTシャツを身体にたぐり寄せた。



 「と、取りあえず、着替え中なので……あなたがた一体……」
 「記憶ポインタが飛んだということで、大変申し訳ない。あなたは今、ほぼ無事に東京に着きました」
 「ほ、ほぼってどういうことですか」「記憶のポインタが飛んでしまったのです」「はあ?」
 「取りあえず、Bチャネルは無事だったので、荷物は無事です。着替えてください」
 「ぼ、僕の身体は?」「取りあえず記憶のポインタを除いて全部無事です」「ここは大阪じゃないんですか」「いいえ、東京の病院です」「そ、そんな……」



 僕はGパンのジッパーをじーっと上げると、周囲を見回した。何だか見慣れた機械だが、少し前のことは余り思い出せない。確か、腰を痛めて大阪の病院に行ったことは記憶にあるのだけれど……。着替えが終わると、僕は見慣れない荷物にぎょっとした。




 「何だろう、この大荷物は……僕は、家出でもするつもりだったのだろうか……」
 「す、鈴木さん、ちょっとこっちへ」
 「は、はいっ」



 僕は医師団が待ち構える席に着席すると、医師が重い口を開いた。



 「このカタログ、覚えていますか」「ああ、コミJですよね、来月開催される……」「って鈴木さん、これって今日から開催のイベントですよ」「あ、そうなんですか?」



 医師団は首をかしげて、まるで難民でも見つめるような困った表情を浮かべた。




 「あのー、このパンフレット、見覚えありますよね、ミリオンエクスプレス……」
 「はい……来月乗る予定だった、あの人体を転送するあれですよね」
 「そうなんですが、今日は東京では落雷がありまして、当院は雷の直撃を受けまして……電源系統のバックアップには気を遣ったのですが……バックアップには万全を尽くしたつもりなのですが、当方の手違いで、鈴木様の記憶のポインタまでは完全にバックアップできなくて、ご不便ご不自由をおかけしております」
 「ご、ご不自由って、余り不自由を感じていませんが……」
 「どうも、済みませんでした」
 「急に謝られても困るなあ……今日は7月28日でしょ?」「いいえ、8月18日です……」
 「ええっ?」「窓の外をご覧いただければお分かりの通り、外は雷雨でして……私どもも早く転送をキャンセルすれば良かったのですが、もう大阪側でエンコードを始めてしまっていたので……やむを得ず運転の続行をしました」



 僕は状況がイマイチ飲み込めず、一切合切ちんぷんかんぷんだった。取りあえず医療保険の書類にサインして、後日、僕の口座にお金が振り込まれると医師団は言う。何でも、ミリオンエクスプレスとやらの運転後、初めての事故だったらしい。



 「では、お大事に、帰りは新幹線のチケットを用意してありますので、お納めください」
 「は、はあ……じゃあ遠慮なく……」



 ところで僕はどこへ行くのだろう。ミリオンエクスプレスって何? なんで東京の病院なんだろう……僕は分厚いカタログを手に取った。あ、これかな、と思った。

とりあえず、国際展示場へはゆりかもめで行くことにしよう。考えるのはそれからだ。僕は病院から無償で貸し出された一本の傘を差して、新橋駅へ続く道を歩き始めた……。



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